テレビって? 〜 脱テレビ生活

今、テレビのない生活を続けている。テレビがないというのは、物理的に「ない」ことを意味している。つまり、家には本当にテレビがないのだ。NHKが集金に来たら、堂々と「うちはテレビがありません」と言える状況だ。もっとも、ちょっと前まではテレビがあったので、受信料は口座引き落しになっているままだけれども。

今回の試みは、まだ始まったばかり。実は、これが始めてではなく、社会人になってからは2回目の出来事である。1回目は、会社に入ったばかりの頃で、2年間テレビを買わなかった。当時は、毎晩が大残業で、帰りが遅かったのでテレビを見る時間は全くなかった。今回はそういう理由ではないのだが、家にいるときは音楽をかけるか本を読む、という過ごし方にしている。

テレビの受動的なところが僕は嫌いだ。

テレビを否定する訳ではない。番組を選べば、一定の時間で入ってくる情報量は多いし、画像という情報の持つ価値は大きい。これらは、テレビという媒体(メディア)の強みだと思う。

一方で、何となくテレビに依存してしまい、自分の時間の過ごし方が妨げられるのはどうかと思った。テレビを持たないというのはかなりの極論であるし、長続きするかどうは分からない。しかし、テレビが、家での時間を最も多く過ごす空間、例えばリビングにあることで、見る回数が増え、それが自分の意志によらない場合は、自分が選択した時間について残念に思うことが多い。

実際、テレビをなくしてしまうと、心が豊かになった気がする。空いた時間でどんな音楽を選び、どんな行動をするか、という選択そのものに積極的な価値を感じるのだ。極端な例になるが、その選択が、「空いた時間で仕事をしよう」というものであってもだ。

このことと似たようなことが、テレビを持っていた場合でも、過去に感じたことがある。ケーブルテレビなどの多チャンネル・ソースを契約したときだ。多チャンネルの場合、数十のチャンネルが見れるのだが、「自分でこれを見る」という積極的な理由がないと、その多チャンネルを活かすことは難しい。

僕は結局、「自分の見たいものが分からなかった」ことを知り、ケーブルテレビを解約したのだが、それでもたまに積極的に見る番組をみつけたときは、選択する楽しみというのを感じたのだった。

この話題に触れて思い出したのが、数ヶ月前に手にとった本。『テレビはなぜ、つまらなくなったのか』である。テレビが、スポンサーによる広告収入によって成り立っている以上、視聴率に左右される番組構成や企画にならざるを得ず、それによる弊害があるというのだ、冷静に考えると、極めて自然な動機であり流れであるのだが、そうしたことも気付かされにくくなっているのが、テレビの持つ力なのだ。

テレビはなぜ、つまらなくなったのか

テレビはなぜ、つまらなくなったのか




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