他人だからこそ〜ワーク・アンド・ライフバランスの意味を考える


ちょっとしたことで、すぐカッとなってしまう私。家内とラブラブのはずなのに、言葉の響きや声のトーンにいちいちひっかかって、おこりっぽく言い返し、それがまた火に油を注いでしまう・・・。

そんなモードに入るとなかなか出られない。家内も負けじといろいろ言ってくると、もう何をどう返したら良いか分からない。昔はムキになって理屈で返していたけれど、今は何とか冷静に戻ろうと思い、言葉を探す・・・。しかし、その言葉は理屈が通っていないと言いにくいから、結局その間言われっ放しで、だんだん「まあ〜いいか」となるか言われ続けてどれが大事だか分からなくなってしまう。

言い争いの中で、自分を引いて、相手の言い分を聞いて、妥協策または打開策を打って出るのは難しい。ビジネスだと、感情が背後にあったとしても、理屈の世界だから理屈で返すしかないけれど、生活ではそれぞれ感情が出るし、そのときの調子の波や、以前の言動や行動が伏線になっていたりして難しい。こんなとき、ビジネス・スキル的には『共感を示せ』とか言われるのだけれど、争っているとそんな言葉もさーっと流れていってしまう。

夫婦も、そして親子でさえも、他人な訳ですよ。それゆえ、言葉のすれ違いもあるし、調子や感情の波も違う。相手に気を許すほど、自分の物差しを無意識に相手にはめこむのかもしれないし、言葉を発しなくても伝わっているだろうと思い込んでしまう。これが積み重なると超危険〜。

他人であるということは現実であって、ネガティブな意味では決してない。他人だからこそ、配慮しないといけないことがある。仲が良いことも現実だけれども、複数の現実によって複雑になっているのがまた現実だ。

しかし、こうした話題を「ビジネスでは〜」と書いているあたりが、すっかり仕事偏重になっている証拠だ。ビジネスも人対人の世界だから、本来が理屈の世界であっても、すべてを綺麗な理屈に収める必要はないだろう。つまり、すっかりビジネスの思考パターンが身に染みてしまっているのだ。

この話から気付くのは、ワーク・アンド・ライフ・バランスについて僕が考えるときは、単に「時間の配分」についてばかり考えている点だ。けれども、実はこうした「理屈的」と「感情的」の異なる思考パターンを、人生の中でバランスさせることの方が大事なのではないか、と思ったのだった。




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