心の休養

時間の流れが流れとして認識できるときに、心や体が休んでいると感じる。


昨日から沖縄にきています。何故沖縄なのか?昨年に訪れたホテルのバーが忘れられなくって、その時間を堪能しに来たと行っても過言ではないくらい。もちろん、いわゆるその土地の要素、地元の人の雰囲気や、気候、味なども好きなんだけど…。

僕は記憶を辿ると、景色や味よりも、体験についての思い出が鮮明なのかもしれない。こう書いてみて、では他のところはどうだったとか、他の人と比べたこともないけれど、今こうして一瞬のうちに思ったことなので、そう表現したいと思った。

そのバーでの体験は、驚くことではなくって、ただただ流れる時間をゆっくりと楽しみ、そこにおいしいお酒(泡盛ですね〜)と明るさと音楽と景色が溶け込んでいたように思う。そして昨晩も踊る心を抑えながらそこへ出向くと、そのときとまったく同じ時間が待っていてくれた。

東京でも同じような体験はできるのだと思う。やってみないと分からないのは、そこへ至るまでのプロセスだろうか。東京で、仮に土曜日だとして、犬を昼から1泊で預け、夕食をゆっくりと食べて、それからバーに出向いたとしても、そして都内にもかかわらずそこで宿泊したとしても、何か違うんじゃないかと思ったりもする。

きっと時間の流れのスイッチがどこかにあるんだと思う。大好きな東京は、生活の場でもあるので、次に何をするかを常に考える場所でもある。休日でリラックスしていても、仕事のことを考える訳でもなくても、自分の今後について考えていたり、誰か他の人を見ることで無意識に何かの反応や興味を示す自分がいる。

そう思ってみると、自分はなんて不器用なんだろうと思う。




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