確率に大きく依存した遊びはやらない


先日、妻が何かで読んできた内容を引用しながら、憤っていた。

「最近流行っているモバゲーとかは、無料と言って客集めておきながら、ゲームを有利に運ぶアイテムを買うために小銭を集めてずるい!射幸心を煽るみたいだ!」

この小銭を集めると、かなりの金額になるそうだ。広告を積極展開して、ユーザー数を増やしているから、そうなのだろうけれど。

気になって調べてみた。ダイヤモンド・オンラインの記事によると、2009年度第3四半期の売上117億円のうち、ゲームのアイテム収入が36億円、アバターに関する売上で21億円とある。足すと57億円になり、ネット企業の典型である広告収入を超える収益を稼いでいる。紹介しきれないが、ブログ記事も含めると、GREEやモバゲーのビジネスモデルに、多くの人が関心を向け、意見を寄せていることが分かった。

ちなみに、アバターとは、SNSサイトで顔写真代わりに使う、自分に似せたキャラクターのことだと思われる。日本のSNSでは、実名・顔写真を使うことが少ないから、こうした仕掛けがあるとつい手を伸ばしたくなるのだろう。


このこと自体に、僕は大きな不快感はない。なぜなら、お金を払う方は払うことに承諾しているはずだからだ。しかし、妻が憤っていたのは、ギャンブルとの類似性にある。「あと少しでゲームに勝てそう」や「周りが使っているから」という「切羽詰まった人につけ入っている感じ」が息苦しく感じるのだろう。その意見には同感だ。


ギャンブルやゲームにはまってしまう人を見かける。ギャンブルやゲームに興じているレベルだと、どこかで「止める」分別が効くのだろうが、はまってしまうと、借金をしてまで続ける人も多い。

携帯ゲームも同様の問題を引き起こしている、と言っているのではない。多くの人は、純粋に楽しむために買っているだろうし、分別をもって接しているに違いない、と信じたい。


かく言う僕も、ゲームにはまりやすい性質だ。僕の場合は、比較的短い期間にゲームばかりやって、徐々に虚しさに襲われたので、やめたのだった。今でもたまに1つのゲームにはまることがあるが、その時の記憶が甦って、やめる。

僕は、そういう経験をしたからまだ良いけれど、これが自分の子供たちだったら、心配で仕方ない。「こういう会社やビジネスはなくならないから、子供にどうやって教えるのかが、難しい問題だね」という話を、妻としていた。


そもそもゲームはなぜ生まれていたのだろう?何かで読んだことがあるが、すっかり忘れてしまった。しかし、われわれ人間は、遊ぶことを忘れてしまっては人間らしいものを失ってしまうから、「遊び」の要素は否定されるものではない。うちの犬など、時間があればずっと遊んでいる。われわれ動物は、遊ぶのが好きなのだ。

しかし、犬でも他人を思いやったり、他の犬に興味を示す時は、遊びを中断して、心の交流に充てている。このことから、他人とのダイレクトな関係がないゲームは、興味の関心が他人よりもゲームそのものにしかないから、何かの罠にはまりそうだ。

例えば、カードゲームなどは、状況を読んだり相手の心理を読むという要素がある。一流のポーカー・プレイヤーと二流を分ける要素も多くあるだろう。そうすると、「こいつには敵わない」という時点で、冷静さを取り戻すことができる。他人が相手であるゲームは、そういう歯止めがある。

コンピューター・ゲームは、スキル向上の過程があるから、その時間は楽しめるだろうが、相手は書かれたプログラムである。僕も大学の演習で、ゲーム・プログラムを書いたことがあるが、ゲームをゲームらしくするのは、確率的な要素だ。

例えば、AとBを組み合わせると常に結果がCになるようでは、つまらない。知識さえあれば解ける問題は、飽きるのも早い。これを避けるには、ゲームの操作を難しくすることだが、難しすぎるとゲームは楽しくないし、簡単すぎても楽しくない。プログラム上容易なのは、予期せぬ障害を起こすことである

つまり、AとBを組み合わせても必ずしも結果がCにならない、というのは確率的な要素なのである。そして、勝つ確率が低いほど、得られる結果を大きくしておく。そうすると、勝ったときの喜びは一層大きくなるのである。

こうした要素は、パチンコやパチスロ、そして宝くじに見られる。確率的な要素が高い上に、「あと少し」と思わせる演出をかけると、ついつい続けてしまうのだろう。

そう言えば、競馬、競輪、オート(バイク)、ボート(競艇)という公営ギャンブルのうち、競馬は予想に経験や分析を伴う「馬の出来」という要素があるから、「比較的入門」だと言う人がいた。その人によれば、オートやボートは、ドライバーである人間以外の要素が少なくなるので、ハイリスク・ハイリターンなのだそうだ。「それは、競馬場とボート場に集まる人たちを(見た目で?)比べれば分かる」・・・と。大きく勝つために、確率的な勝利に身を委ねるのだそうだ。


まとめると、確率に依存する遊びは、本人の力が及ばないところが多いので、やるべきではないのだろう。それも知った上で遊ぶのなら、はまる可能性も低いだろうが、いずれにせよギャンブルは胴元が寺銭を引くので、期待値では掛け金以上にはならない。

ゲームの場合は、期待値とは関係ないが、確率的な要素が大きいゲームに貴重な時間を浪費するのは、寺銭を払う以上に無駄である。おそらく、ゲームに勝つためのアイテムは、大した金額ではないのだろうが、それに伴って消費する時間と、今遊んでいるゲームの本質を、考えてみるとよい。

そうしたことを、平たく子供に説明できるようになれたら良い。




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