書評 〜 季節の記憶

僕の好きな小説家の1人は、保坂和志さんである。僕が「いいなあ」と憧れる人々の会話があり、思考のプロセスがある。

例えば、ある物事を見たり考えるときに、「Aかもしれないし、Bかもしれないし、でも本当のところはわからない」と平気で言う。それでは話が前に進まないと思うかもしれないが、その思考プロセスは、僕らの日常でよくあることだと思う。全てをはっきりさせないというか、はっきりできないものがあるというか、客観的にしまいこめようとすると実はしまえなくって、ということを平然と扱う。その文章によって、ある種の寛容を見出したりするのだ。

「なぜこうなっているのだろう」とか「あなたの考え方っていつもそう・・・」とか、そういう会話の中で、お互いの理解を深めたり、そして自分への理解を深めたりもする。この小説は、そしてその中の会話は、ちょっと理屈っぽく映るのだが、僕はそんな時間を過ごすことが好きだ。

で、この小説はおおよそそういう会話で成り立っている。実を言うと、それ以外のストーリーはあまりないと言ってもいい。大事件が起きる訳でもなく、でも日常の中での考えが綴られていく・・・、そんなお話です。

言葉について面白いことが書いてあった。「言語の機能とは何かといえば抽象化とか象徴化とかのことで・・・」「だから文字をもった人間は次々に抽象と抽象を結び合わせて膨大の情報を処理して保存していくわけで、そうして文字によって強化された言語の脳はとても強くなって、他の視覚、聴覚、嗅覚、触覚なんかの生の感覚を抑圧する」(以上、抜粋)などとある。

ふと、このことを、人のコミュニケーションについて考えてみたくなった。

僕は言語を上手く使わないと、人はコミュニケーションできないと思っているのだけど、人が五感を通じて得た感情を口に出すことの重要さ、も同時に考えてみた。動物などに比べたら、人の五感は鈍いことが多いのだろうけど、一方で、抽象でも何でも「人に伝えたい」と思う気持ちから五感を働かせたり、五感だけでなくって”考え”を巡らすということは、必要なのだと思う。

「言語を上手く」という表現を使ったが、本当のところは「言語を程よく」とか「何でも話していく」というトーンだと思う。何も気の利いた表現は必要ない。度を越して抽象化することも必要ない。ただ、伝えたいという気持ちが言葉を選ばせ、あるいは並ばせ、そして音となって相手に運ばれていく。

季節の記憶 (中公文庫)

季節の記憶 (中公文庫)




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