教育力

斎藤孝さんの「教育力 (岩波新書)」を読んだ。斎藤孝さんって、教育学の先生だったのですね。いろいろな著書やテレビに出演されているから、イメージがずいぶん拡散していました。

学校教育を題材にして書いているけれど、斎藤さんも本の中で言っているように、会社の中で人に教えたり、リーダーやマネージャーの立場でチームを引っ張っている人にも、この本はお勧めしたい。

「教育の一番の基本は、学ぶ意欲をかき立てることだ。」とあり、そのためには「教える者自身が、あこがれを強く持つ必要がある。」と言う。教える側にも、いろいろなテクニックや、教えることの上手い下手というのが話題になる。社会人だと、プレゼン能力とか、説明能力とか、部下の育成能力ということが評価の対象となり、とかく見栄えと結果に目が向くのではないだろうか。

僕は学校の先生の経験はないけれど、社会人になって、社内研修の講師から、部下の育成、チームミーティングでのプレゼンやファシリテーターなど、いろいろな場面で人に教えることをやってきた。その経験では、「これができると次はこんなことができる」とか、「そもそも今考えるのは、こういう目標があって、それを達成するのはすごいんじゃないか」という道筋を立てると思いが伝わりやすいと思った。そして、「教えた結果、こんな仕事ができるようになったら、僕は嬉しい」とか「その結果として、こんな仕事を一緒にしようじゃないか」というメッセージを込める。内容も大事だが、情熱も同じくらい大事だと思う。教えるのは楽しいことだが、相応のエネルギーをかけるので、残った自分はクタクタになることが多い。

「人に何かを教えたい」という気持ちは「人間の欲望のなかでも大きなものだ」そうである。「一種の支配欲にも少し似ている」そうだ。それゆえ、自分の思うような期待や結果をすぐに求めたり、自分の考えを押し付けるようなことはしてはならないのだろう。教えた結果、人が育ち、教える側もそこから何かを得ていくような関係になれば、それが理想だ。

斎藤さんは、本の中で幾度となく「教師が学ぶことをやめると、教育力は落ちる。」と言う。これを仕事に当てはめると、ドキッとする人も多いのではないだろうか。例えば、僕らが教わる側にいるとして、新しいことに何も挑戦していない上司から教わるのはどうだろうか?逆に、僕らが教える側にいるとして、過去にやってきたことをそのまま伝えるのは、仕事なので仕方がないと割り切る場面ではあるものの、それでは飛躍する機会をみすみす逃すのではないだろうか?

部下と良い関係にあるとき、あるいは部下が優秀なときは、「分かりました!でもこういう考えで別の方法を試してみませんか?」と言われたときに、どれだけ柔軟にその意見を取り入れることができるか、というのはここでの話題に似ている。

教える題材についてどれほど学んでいるかという狭い意味ではなく、広い意味で教える人が学んでいるかどうかを知ることは、その人の発言の柔軟性や創造性が伝えてくれるし、何気ない話題からも垣間見れたりする。どうせ習うなら、向上心の高い人からエネルギー毎学びたいし、そういう人は概して質問に対する答えも非常に幅が広い。

社会人になって学び続けるというのは、難しいようで簡単だし、簡単なようで難しい。何が言いたいかと言うと、別に学校に行かなくても、図書館や本から知識を得ることは可能である。仕事に関連する書籍や、仕事方法についての本を読むだけでも、相応の知識が得られるだろう。学生の読書以上に、それをどう応用するか、どう活かすかという問題意識を常に持っていれば、だ。

一方で、専門性が高くなっていくと、市販されている本だけでは事足りず、専門誌や学術誌、学会や研究会へ通う必要も出てくる。情報へのアクセスが少し限られてくるから、意欲と行動のレベルを意識的に一つ上げないと機会を容易に逃してしまう。

僕は、30歳くらいのときに転職をし、仕事が忙しいことと、英会話の勉強を優先させたから、専門に関する勉強を5年くらいやらなかった。これは今でも大変に後悔している。その後、5年くらいかけて、猛烈にキャッチアップをしたけれど、最初の5年はもったいなかったなあ、と常々思う。その後の5年に勉強を集中して行った期間は、マネージャーとしても成長した時期だったから、何らかのオーラが伝わったようだが、もっと早く気付くべきだった。

教育力 (岩波新書)

教育力 (岩波新書)




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