「街場のメディア論」を読んで、メディア・リテラシーを上げたいと思った


著者は、フランス現代思想などを専門とする教授。大学での講義をベースに「メディアには何が起きているか」を書いている。

メディアによるコンテンツがつまらなくなったのは、いつ頃だっただろうか?今だと、頼りない政治を筆頭に、「これは見たい」というコンテンツが少ないのだが、そうしたコンテンツをさらにつまらなくしているのが、たとえばテレビそのものであり、さらにそこに出ているコメンテーターと言われる無責任な人々と言ったら言い過ぎだろうか?

まあ、僕はメディアに対してここで匿名で発言している訳で、本書の言葉を借りれば、立派な無責任人間。そういう意味では、あまり偉そうな口をきく資格はない・・・。

本書では、メディアが大衆迎合的になっていて、それを批判する勢力もないことを悲観視している。また、世論を作っているのはメディアだという驕りがメディアを勘違いさせているとも言う。

仮に、身の回りに、他人から批判もされず、世論を作っていると思い込んでいる人がいたら、どう思うだろうか?きっと怪しくて近づけないに違いない。

本書の主張は概ね共感できる。ところで、僕の世代(40代前半)で、「昔のメディアは違った」「こうだった」と言える人はどれくらいいるだろうか?言い方を変えると、ではメディアが頼もしい存在だった時代は、いつまでだったのだろう?

残念ながら僕にはその答えは分からない。できる限り中立で、あるいはメディアの会社がよって立つイデオロギーに忠実で、軸がぶれない意見が出ていたことは想像される。それは、年配のジャーナリストと言われる人たちの言動から垣間見れることがあるからだ。

これからは、視聴率や購読料、広告費、印税にしばられない、ネットの意見がもっとも信頼されていくのだろうか?もちろん、全ての意見が信頼できる訳ではない。中には策略的な著者もいるだろう。何が良いかを見究めるのは、個人にすべてかかっていくのだ。

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こうしたメディア論を目にすると、最後は個人が情報リテラシー(厳密にはメディア・リテラシー)を上げることしか救いはないのだろうと思う。そして、価値があるものにはお金を払う。メディアが一斉に衰退するのは社会的には良くないが、淘汰されて良いもの、または個性がぶれないものは残っていくのが望ましい。なので、メディアの衰退については、僕はむしろ静観している。

分かりやすい問題の筆頭は、料金無料の民放テレビだろうか。スポンサーに財布を握られている民放テレビは、自由度において一番脆弱だからだ。現実に、各社とも似たようなコンテンツに収れんし、魅力がなくなっている。「タダほど高くつくものはない」という世の原則はそこにも当てはまる。

購読料を払っている新聞にも言える。新聞はテレビ会社と系列になっていて、スポンサーにも依存しているから、歯に衣を着せない意見は期待できないだろう。

社会人になりたての頃、新聞の読み方を先輩から教わった。「事実を伝えている記事と意見が混じっている記事を区別しろ」というものだった。実は、事実を伝えていそうな記事でも、書き手によってバイアスがかかる場合があるから、本当に事実を知るためには複数の情報ソースに当たるしかないのだが、要はそういう疑いを持ってメディアに接する必要があるということだ。

本書では、さらに消費社会と書籍との関係や、教育・医療についてのメディアの果たした功罪など、興味深い話題がつまっている。今日はスペースの関係で書かないが、電子書籍の話に関連して、著者の本棚論が展開されてあたりは、非常に面白かった。なぜなら、僕も大きな本棚を持つことで幸福を感じている人間だからである。

メディア論の裏に、消費者(たとえば本を買う人)と読者との違いを指摘している部分がある。消費者の存在に焦点をあてると、売り手は「電子化はけしからん」と思うようになるが、その売り手が消費者を読者として見ると「電子化でも図書館でもまずは読んでください」となる。この議論は、コンテンツが商業的すぎるのか、それとも魂のこもった作品なのか、によって受け止め方が違ってくる。

商業化されたメディアは全て悪だとは思わないが、限度問題であるがゆえに、実に悩ましい問題である。

街場のメディア論 (光文社新書)

街場のメディア論 (光文社新書)




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